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ロードレース活動

ロードレースは、ガレージ湘南の歴史と深いつながりがあります。

ガレージ湘南は1985年、現代表の日向がレース活動をするため前オーナーから継承しました。(のちに法人化)

​現在とちがって、店頭にバイクが並んでいる販売ショップでした。その後、時代はバブルへと突入。バイクブームが到来し、バイクが飛ぶように売れました。

また、テレビ中継や、インターネットがなかったにも関わらず、ロードレース世界GP(MotoGP)人気が高まり、レーサーレプリカ(現代でいうスーパースポーツ)がブームとなりました。

レース人口が増え、日本の有名企業がスポンサーになったり、芸能人が鈴鹿8耐に参加する時代でした。

YOSHIMURA創業者との出会い

「​関東のロードレース名門チームといえばヨシムラ」

必然的に日向は客として、ヨシムラ(現ヨシムラ・ジャパン)に通うようになりました。

そうするうちに、ヨシムラ創業者 ポップ吉村氏から直接、エンジンチューニングを教わったり、プライベーターがレース活動を続けるための秘訣について、アドバイスをもらえるようになりました。

プライベーターとは?

個人でレースに参加する者のこと。それに対し、バイクの製造メーカーが、自らの資金でチームを組織し、参戦するチームを「ワークス(またはファクトリー)」といいます。

​同じ車種でも、ワークスマシンとプライベーターではバイクの中身は別物です。

ポップ吉村氏は

 

「ウチ(ヨシムラ)はプライベーターだ」「いいか日向、プライベーターがマシンを壊したら、だれも弁償してくれないぞ。全額自腹だ。とにかく転ぶな、壊すな」

 

よく仰ってました。

​その後、日向はワンシーズン、メカニックとして、ヨシムラのレース活動に帯同しました。

鈴鹿8時間耐久ロードレース参戦

1983年から1998年までの15年間、日向はプライベーターとして鈴鹿8時間耐久ロードレースに参戦。

 

当時、鈴鹿8耐の平均完走率は約30%。日向の完走率は平均70%、最後の10年間は完走率100%でした。

鈴鹿8耐 GSX1000SZR 日向正篤

耐久レース仕様のGSX1000SZR

1983年は排気量1000cc最後の年です。84年から750ccにレギュレーション変更されました。

余談になりますが、8耐出場した時、鈴鹿のピット前でカブでウイリーして遊んでいたら、あっと言う間に出場者の外国人ライダーたちが集まってきました。

カブがめずらしかったのか、英語が話せる日本人がめずらしかったのか、カブの乗り方を教えると、みんなでウイリー競争が始まりました。

​「鈴鹿8耐 裏レース」として、その様子がどこかの雑誌で取り上げられました。

GSX-R750油冷 ワコーズカラー

GSX-R750油冷

​創業期のワコーズオイルの開発ライダーを務めていたため、ワコーズカラーです。

鈴鹿8耐 VFR750R 日向正篤

VFR750R RC30

鈴鹿8耐 PIAAレーシング 日向正篤

PIAAレーシング・チーム・マルタ

鈴鹿8耐 RC30 日向正篤

VFR750R RC30

ヘルメット

ヘルメットは比較した結果、機能面で優れているアライ製を使うようになりました。

「自腹で購入してでも、アライ製がいい」

それぐらい、他社と差がありました。

その後、アライからサポートを受けるようになり、日向モデル(#97 RC30の写真)のヘルメットが市販されたこともありました。

現在もアライから「海外レースに出るなら作るよ」と言っていただいています。

レーシングスーツ

さまざまなメーカーの革ツナギをレースで使用しました。

バイク同様、レーシングスーツも進歩があり、縫製が甘くて転倒時に破れてしまう製品があったり、必要以上にクッションが多く、動きにくい製品もありました。

大事なのは実際に使用したライダーの声を聴いて、製品を向上させていくこと。

いろいろ試した結果、FORZA(フォルツァ 現在は廃業)や、ミズノのレーシングスーツを手がけていた和田 功一​氏に製作をお願いするようになり、現在に至ります。

PRIDE ONE(プライドワン)

余談ですが、むかし大阪のミズノをおとずれた際、採寸してくれたのが和田氏でした。

プライドワン 革ツナギ
レーシングスーツ プライドワン

毎年、ふじさわ産業フェスタ出展の際、プライドワンのレーシングスーツを展示しています。

「別次元の軽さですね」

 

約20年ぶりにレーシングスーツを手にしたお客さまが仰っていました。

​イリジウムプラグ開発

DENSO社がイリジウムプラグを開発していた際、2輪オートバーレーサーとして唯一、テストライダーを務めました。

 

(イリジウムプラグを装着したRC30で8耐を走ってました)

​数年後にイリジウムプラグが市販され、広く一般に知られるようになりました。

1987年にはNS400(オートスタジオスキル)で出場しました。

​熱狂的な声援を受けたNS400エピソード

鈴鹿8耐 リザルト 1993 日向正篤
鈴鹿8耐 リザルト 1993 日向正篤

1993年 公式結果

出走64台/グリッド50/決勝35位

鈴鹿8耐 リザルト 1994 日向正篤
鈴鹿8耐 リザルト 1994 日向正篤

1994年 公式結果

​出走66台/グリッド63/決勝29位

優勝を目指すワークスマシンと違い、プライベーターは完走することが目標。予選は、通過できればOKなので順位は気にしませんでした。

決勝で順位が変わるからです。(ブログでくわしく話しています)

そのほか国内レース

・MCFAJエキスパート500クラスで、3年連続シリーズチャンピオン(1987年-1989年)を獲得。

・もてぎ7時間耐久ロードレース、SUGO6時間耐久レース他に出場。

海外でのレース活動

マカオGP 888 日向正篤

DUCATI 888、VFR750Rで公道レース マカオGP(Macau Grand Prix)に出場。

DUCATI 888はそれまで乗った中で、もっとも相性の良かったマシン。

 

クラッチトラブルにより、ピットスタートになったマカオGP決勝レースでは、エントリー数約40台のうち、最後尾スタートから15位まで追い上げることができました。

全日本選手権にも888で出場しましたが、RC30(VFR750R)の時よりもラップタイムが良かったです。

当時は全日本選手権にDUCATIで出場している人が他にいなかったため、めずらしい存在でした。

​ほかには韓国やインド、インドネシアなどのレースに出場しました。

2001年には公道レース「マカオGP(第48回)」でチーム監督として招聘され、日本人ライダー2名が表彰台を獲得しました。1位(故・加藤 直樹選手)、3位(小室 旭選手)

これまでに使用したレース車両:

Z1、GS750(モリワキフレーム)、GSX1000SZR、油冷GSX-R750、VFR750R(RC30)、RVF750(RC45)、RS250、TZ250、NS400R、DUCATI 888、GSX-R1000、FZR750R(OW-01)、SRX600、VTR250、SV1000S、VTR1000SP2ほか

プライベーターにこだわる理由

あるとき、雑誌社を通じて、ワークス入りのオファーの話がありました。

 

ワークスチームは、バイクを製造しているメーカーが総力をあげてマシンを仕上げます。とてもプライベーターが太刀打ちできないほどです。

 

また、ワークスライダーはプライベーターのように、バイクを壊しても自腹で弁償しなくてすみます。

その反面、バイクはメーカーのものですから、ライダーが自由に調整したり、改造することはできません。あくまで完成したバイクに乗る、ということになります。

「自分のバイクを自分で触ることができないなら、やらない」

日向はあっさり断って、みずからの手でつくったバイクでレースをする事にこだわってきました。

良いか? 悪いか?

レースでは、結果が教えてくれます。

 

自分の考えや、方法論がまちがっていたらマシンが壊れたり、タイムに反映されなかったりします。良くも悪くも、結果を突きつけられるわけです。

​限界までテストしてはじめて、判ることもたくさんあります。

​現在の当店は、エンジンのオーバーホールや、レストアをメイン業務としています。

 

ワンオフパーツの製作や、パーツの加工、チューニングに至るまで、こうした長年のレース活動の経験がベースとなっています。

バイク出版社業界

すこし余談になりますが、1980年代〜1990年代前半まで、バイク雑誌BGの市販車テストライダー兼ライターを務めていました。

(国産・外車、原付から大型バイクまでジャンルを問わず、箱根やサーキット走行)

その間、試乗したバイクは数百台以上になります。

 

NSR250R・TZR・ガンマの比較走行もおこないました。

現代でいう「旧車」が、まだ新車だったころに乗っていますので、本来のバイクの状態を知る良い経験になりました。

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一般的に​メーカー主催のバイクメディア向け合同試乗会では、比較的、自由に批評することができます。

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​しかし広報車は直接、メーカーからバイクを借りるため、都合の悪いことを書くと雑誌社はメーカーに広告を打ち切られてしまいます。

​​

大手ほど、記事内容の制限が厳しくなるわけです。

だから大手ではなく、制限のない雑誌社の依頼を引き受けました。

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最後に激辛レビュー「現行車132台 インプレッション」という企画を担当し、50ccからリッターバイクまで、国産車・外車を問わず広報車を借りて、試乗しました。

雑誌社側から「最後だから好き勝手に書いていいよ」という事でしたので、忖度抜きで酷評しました。

(編集の方が「本音が書ける雑誌がないといけない」という考えでした)

結果、その後、二度と出版業界からオファーは来なくなりましたが(笑)、記事が掲載された回の雑誌の売れ行きが、歴代1位だったそうです。

​しかし、なかには記事で酷評(正確には事実の指摘)したことに対して後年、後継モデルで対処しているメーカーもありました。

引退後、レースとの関わり

鈴鹿8耐は、2005年が引退レースとなりました。​

 

その後はレース仲間と富士スピードウェイの耐久レースに参戦。「チャンピオンを獲れたらやめよう」パートナーライダーと約束し無事、果たすことができました。

むかしはマシンの差で勝てなかったライバルたちに、マシンの差がほぼないレースでリベンジを果たしました。

レース用VTR250

VTR250

レース用CBR650Fに乗る日向正篤

CBR650F エビスサーキット走行会

近年は日常業務や、NPO法人の活動で多忙なため、アドバイザーとしてレースに関わるようになっています。

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